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【 訓 読 】
【ページ9】 爾 の 時 に 大荘厳菩薩摩訶薩 、 八萬 の 菩薩摩訶薩 と、 是 の 偈 を 説 いて 佛 を 讃 めたてまつること 已 って 倶 に 佛 に 白 して 言 さく、 世尊 、 我等八萬 の 菩薩 の 衆 、 今者如来 の 法 の 中 に 於 て、 諮問 する 所 あらんと 欲 す。 不審 、 世尊愍聴 を 垂 れたまいなんや 否 や。 佛 、 大荘厳菩薩及 び 八萬 の 菩薩 に 告 げたまわく、 善哉善哉 、 善男子 、 善 く 是 れ 時 なることを 知 れり、 汝 が 所問 を 恣 にせよ。 如来久 しからずして 当 に 般涅槃 すべし。 涅槃 の 後 も、 普 く 一切 をして 復余 の 疑無 からしめん。 何 の 所問 をか 欲 する、 便 ち 之 を 説 くべし。 是 に 大荘厳菩薩 、 八萬 の 菩薩 と、 即 ち 共 に 声 を 同 じうして 佛 に 白 して 言 さく、 世尊 、 菩薩摩訶薩疾 く 阿耨多羅三藐三菩提 を 成 ずることを 得 んと 欲 せば、 応当 に 何等 の 法門 を 修行 すべき、 何等 の 法門 か 能 く 菩薩摩訶薩 をして 疾 く 阿耨多羅三藐三菩提 を |
【 現 代 語 訳 】
【ページ9】 そのときに大荘厳菩薩摩訶薩は、 八万の悟りを求める修行者と大乘を求める修行者とともにこの詩を説いて仏を賛嘆し奉ることを終えて、仏に向かって言った。 世尊、われら八万の悟りを求める修行者たちは、今、如来の教えの中に於いて問いたいところがございます。 はっきりしない点があって疑わしく思うことがございます。世尊、哀れと思いお聞きくださいますか。 仏は、大荘厳菩薩と八万の悟りを求める修行者に告げた。 よろしい、よろしい。仏法に帰依した男子よ、よく今がそのときであることを知った。おまえたちの質問をしてみなさい。 わたしは遠くない未来に最後の悟りを得た境地に入りこの世を離れるだろう。 この世を離れた後も、広く全てにおいてまたその他の疑問を無くしましょう。 どのような質問があるのか。それを述べてみなさい。 大荘厳菩薩と八万の悟りを求める修行者は、声を合わせて仏に向かって言った。 世尊、悟りを求める修行者や大乘を求める修行者がすぐに悟りを成就しようとするならば、どのような一切の真理をあまねく知った最上の智慧を得るための仏の教えを修行すればいいのでしょうか。 どのような仏の教えが悟りを求める修行者や大乘を求める修行者をすぐに悟りへと導くのでしょうか。 |
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【ページ10】
成 ぜしむるや。 佛 、 大荘厳菩薩及 び 八萬 の 菩薩 に 告 げて 言 わく、 善男子 、 一 の 法門 あり、 能 く 菩薩 をして 疾 く 阿耨多羅三藐三菩提 を 成 ずることを 得 せしむ。 若 し 菩薩 あって 是 の 法門 を 学 せば、 則 ち 能 く 阿耨多羅三藐三菩提 を 得 ん。 世尊 、 是 の 法門 とは 号 を 何等 と 字 くる、 其 の 義云何 、 菩薩云何 が 修行 せん。 佛 の 言 わく、 善男子 、 是 の 一 の 法門 をば 名 づ け て 無量義 と 為 す。 菩薩 、 無量義 を 修学 することを 得 んと 欲 せば、 応当 に 一切諸法 は 自 ら 本 、 来 、 今 、 性相空寂 にして 無大 、 無小 、 無生 、 無滅 、 非住 、 非動 、 不進 、 不退 、 猶 お 虚空 の 如 く 二法 あることなしと 観察 すべし。 而 るにもろもろ 諸 の 衆生 、 虚妄 に、 是 れは 此 、 是 れは 彼 、 是 れは 得 、 是 れは 失 と 横計 して、 不善 の 念 を 起 し 衆 の 悪業 を 造 って 六趣 に 輪廻 し、 諸 の 苦毒 を 受 けて、 無量億劫自 ら 出 ずること 能 わず。 菩薩摩訶薩 、 是 の 如 く 諦 かに 観 じて、 憐愍 の 心 を 生 じ 大慈悲 を 発 して 将 に 救抜 せんと 欲 し、 又復深 く 一切 の 諸法 に 入 れ。 法 の 相是 の 如 くして 是 の 如 き 法 を 生 ず。 |
【ページ10】
仏は大荘厳菩薩と八万の菩薩にお告げになった。 仏法に帰依した男子よ、ここに一つの一切の真理をあまねく知った最上の智慧を得るための仏の教えがあります。それはよく悟りを求める修行者をすぐに悟りへと導くでしょう。 もし悟りを求める修行者がこの仏の教えを学ぶならば、すぐに一切の真理をあまねく知った最上の智慧を得ることができるのです。 世尊、その仏の教えとはなんと言う呼び名でしょうか。其の教義は何でしょうか。悟りを求める修行者はどのように修行すればいいのでしょうか。 仏は言われた。仏法に帰依した男子よ、このただ一つの仏の教えを名づけて無量義と言う。 悟りを求める修行者が無量義を修学することを望むならば、 この世に存在する有形や無形の一切のものはそれ自体その根本と経過と現在の姿において釣り合いが取れていて、宇宙の性質や有様全ての事物は実体がなくその本性は空であり、 大きさもなく、小ささもなく、生じることもなく、死ぬこともなく、留まることもなく、動くこともなく、進むこともなく、後退することもなく、 何も妨げるものがなくすべてのものの存在する場所としての空間があり、これ以外の法は無いと智慧によって対象を正しく見極めよ。 このため諸々の生命のあるものすべては、うそ偽りのように、これはこれであるとか、これはあれであるとか、これは得であるとか、これは損であるとか勝手気ままに計算して、 善くない思いを起こし多くの悪い行いをしてその業によっておもむく六種の世界で生死を繰り返し、 いろいろな報いとして受ける心身の苦しみや災いを受けるのです。永遠に自ら抜け出すことはできないのです。 悟りを求める修行者と大乘を求める修行者よ、このように本質をはっきりと見極め、哀れみの心を生じ大きな慈悲を発して、今にも苦しい状況から救い出そうと願い、 またこの世に存在する有形や無形の一切のものに深く関わりなさい。 永遠普遍の真理の様相はこのようであり、このようにして永遠普遍の真理を生み出すのです。 |
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【ページ11】
法 の 相是 の 如 くして 是 の 如 き 法 を 住 す。 法 の 相是 の 如 くして 是 の 如 き 法 を 異 す。 法 の 相是 の 如 くして 是 の 如 き 法 を 滅 す。 法 の 相是 の 如 くして 能 く 悪法 を 生 ず。 法 の 相是 の 如 くして 能 く 善法 を 生 ず。 住 、 異 、 滅 も 亦復是 の 如 し。 菩薩是 の 如 く 四相 の 始末 を 観察 して 悉 く 遍 く 知 り 已 って、 次 に 復諦 かに 一切 の 諸法 は 念念 に 住 せず、 新新 に 生滅 すと 観 じ、 復即時 に 生 、 住 、 異 、 滅 すと 観 ぜよ。 是 の 如 く 観 じ 已 って、 衆生 の 諸 の 根性欲 に 入 る。 性欲無量 なるが 故 に 説法無量 なり、 説法無量 なるが 故 に 義 も 亦無量 なり。 無量義 とは 一法 より 生 ず。 其 の 一法 とは 即 ち 無相 なり。 是 の 如 き 無相 は、 相 なく、 相 ならず、 相 ならずして 相 なきを 名 づ け て 実相 とす。 菩薩摩訶薩 、 是 の 如 き 真実 の 相 に 安住 し 已 って、 発 する 所 の 慈悲 、 明諦 にして 虚 しからず。 衆生 の 所 に 於 いて 真 に 能 く 苦 を 抜 く。 苦既 に 抜 き 已 って、 復為 に 法 を 説 いて、 諸 の 衆生 をして 快楽 を 受 けしむ。 善男子 、 菩薩若 し 能 く 是 の 如 く 一切 の 法門無量義 を 修 せん 者 、 |
【ページ11】
永遠普遍の真理の様相はこのようであり、このようにして永遠普遍の真理を存続させるのです。 永遠普遍の真理の様相はこのようであり、このようにして永遠普遍の真理を変えていくのです。 永遠普遍の真理の様相はこのようであり、このようにして永遠普遍の真理を消滅させるのです。 永遠普遍の真理の様相はこのようであり、このようにして間違った真理を生み出すのです。 永遠普遍の真理の様相はこのようであり、正しい永遠普遍の真理をうみだすのです。 しばらく変わらず続いたり、変化したり、消滅したりということもまたこれと同じなのです。 悟りを求める修行者はこのように4つの様相の初めと終わりを智慧によって正しく見極めて全てもれなく理解し、 次に本質をはっきりと見極め全てのこの世に存在する有形や無形の一切のものは一瞬たりとも変わらないで続く事はなく、次から次へと生まれては消滅すると思いめぐらしなさい。 またすぐその時に生まれ、変わらないで続いていき、変化し、消滅すると思いめぐらして物の真理本質を悟りなさい。 このように思いめぐらして、生命のあるものすべての能力、性格、欲望を推し量りなさい。 性格や欲望ははかることができないほど多いために、説法もはかることができないほど多い、説法がはかることができないほど多いために、教えの内容もはかることができないほど多いのです。 無量義とは一つの永遠普遍の真理から生まれたのです。 その一つの永遠普遍の真理とはすなわち一切の執着を離れた無という状態です。 このような一切の執着を離れた無という状態は、物事がなく、物事が起らず、物事が起らないために物事がないことを真実の本性と呼ぶのです。 悟りを求める修行者と大乘を求める修行者よ、このような真実の様相に留まってそこから物事を見て、そこから発する慈悲の心は、真理を悟る心でありむなしくないのです。 生命のあるものすべてのところにおいて真に巧みに苦しみを抜き取りることができるのです。 苦しみをすでに抜き取って、またそのために永遠普遍の真理を説き、諸々の生命のあるものすべてに対して快楽を授けさせることができるのです。 仏法に帰依した男子よ、悟りを求める修行者でもしこのように全ての仏の教えである無量義を修める者は、 |
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【ページ12】
必 ず 疾 く 阿耨多羅三藐三菩提 を 成 ずることを 得 ん。 善男子 、 是 の 如 き 甚深無上大乗無量義経 は、 文理真正 に 尊 にして 過上 なし。 三世 の 諸佛 の 共 に 守護 したもう 所 なり。 衆魔群道 、 得入 することあることなく、 一切 の 邪見生死 に 壊敗 せられず。 是 の 故 に 善男子 、 菩薩摩訶薩若 し 疾 く 無上菩提 を 成 ぜんと 欲 せば、 応当 に 是 の 如 き 甚深無上大乗無量義経 を 修学 すべし。 爾 の 時 に 大荘厳菩薩 、 復佛 に 白 して 言 さく、 世尊 、 世尊 の 説法不可思議 なり。 衆生 の 根性亦不可思議 なり。 法門解脱亦不可思議 なり。 我等 、 佛 の 諸説 の 諸法 に 於 いて 復疑難 な け れども、 而 も 諸 の 衆生迷惑 の 心 を 生 ぜんが 故 に、 重 ねて、 世尊 に 諮 いたてまつる。 如来 の 得道 より 以来四十余年 、 常 に 衆生 の 為 に 諸法 の 四相 の 義 、 苦 の 義 、 空 の 義 、 無常 、 無我 、 無大 、 無小 、 無生 、 無滅 、 一相 、 無相 、 法性 、 法相 、 本来空寂 、 不来 、 不去 、 不出 、 不没 を 演説 したもう。 若 し 聞 くことある 者 は、 或 は 煗法 、 頂法 、 世第一法 、 須陀洹果 、 斯陀含果 、 |
【ページ12】
必ずすぐに一切の真理をあまねく知った最上の智慧を得るでしょう。 仏法に帰依した男子よ、このような非常に深くこの上ない衆生救済を重んじる無量義経は、文章の筋道は真に正しく尊ぶべきものでありこの上ないのです。 過去現在未来において諸々の仏が共に守護されるものなのです。 邪魔者や他の教義も入り込んでくることはなく、全ての因果の道理を無視する誤った考え方や生まれては死に死んでは生まれる苦しみに秩序がこわれることはないのです。 このために仏法に帰依した男子よ、悟りを求める修行者と大乘を求める修行者がすぐに成仏をしようと願うならば、 きっとこのような非常に深くこの上ない衆生救済を重んじる無量義経を修学するであろう。 そのときに大荘厳菩薩は、仏に向かって言った。 世尊、世尊の説法は通念では理解出来ません。 生命のあるものすべての本来的に持っている性質もまた通念では理解出来ません。 仏の教えや苦しみから解かれのがれることもまた通念では理解できません。 私たちは、仏の説く諸々の教えにおいて疑いを持ちませんが、 しかし諸々の生命のあるものすべては迷いの心を生じるために、重ねて世尊に問いたいと思います。 如来が悟りをお開きになって以来四十数年がたちます、 常に人々のためにこの世に存在する有形や無形の一切のものの生まれる生、存在する住、変化する異、なくなる滅の教えの内容、苦の教えの内容、空の教えの内容、 この世の中の一切のものは常に生滅流転して永遠不変のものはないという教え・万物に内在し常恒不変である実体などは存在しないということ・大きさもなく・小ささもなく・ 生じることもなく・死ぬこともなく・一つの姿かたち・縁に応じていかようにも変化しどうにでもなれるということ・すべての存在や現象の真の本性・万物の高下善悪の姿・ 一切のものはもともと仮の存在であり実体のないものであるということ・来る事もなく・去る事もなく・出る事もなく・没することもないことを演説してこられた。 もし聞くものがあれば、あるいは煖法(四善根位の第一、煩悩を焼き尽くす見道の無漏の慧の火に近づき、有漏の善根を生ずる位)、頂法(山の頂に登つて四方を見るに雲無きが如し)、 忍法(此の位に入る人は永く悪道に堕ちず)、世第一法(此の位に至る賢人なり但今聖人と成る可きなり)・須陀洹果(仏教修行の第一の段階)・斯陀含果(小乗仏教修行の第二の階梯)・ |
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【ページ13】
阿那含果 、 阿羅漢果 、 辟支佛道 を 得 、 菩提心 を 発 し、 第一地 、 第二地 、 第三地 に 登 り、 第十地 に 至 りき。 往日説 きたもう 所 の 諸法 の 義 と 今説 きたもう 所 と、 何等 の 異 なることあれば、 而 も 甚深無上大乗無量義経 のみ、 菩薩修行 せば 必 ず 疾 く 無上菩提 を 成 ずることを 得 んと 言 う、 是 の 事如何 。 唯願 わくは 世尊 、 一切 を 慈哀 して 広 く 衆生 の 為 に 而 も 之 を 分別 し、 普 く 現在及 び 未来世 に 法 を 聞 くことあらん 者 をして、 余 の 疑網無 からしめたまえ。 是 に 佛 、 大荘厳菩薩 に 告 げたまわく、 善哉善哉 、 大善男子 、 能 く 如来 に 是 の 如 き 甚深無上大乗微妙 の 義 を 問 えり。 当 に 知 るべし、 汝能 く 利益 する 所多 く、 人天 を 安楽 し 苦 の 衆生 を 抜 く。 真 の 大慈悲 なり、 真実 にして 虚 しからず。 是 の 因縁 を 以 って、 必 ず 疾 く 無上菩提 を 成 ずることを 得 ん。 亦一切 の 今世 、 来世 の 諸有 の 衆生 をして、 無上菩提 を 成 ずることを 得 せしめん。 善男子 、 我先 に 道場菩提樹下 に 端坐 すること 六年 にして、 阿耨多羅三藐三菩提 を 成 ずることを 得 たり。 |
【ページ13】
阿那含果(小乗仏教修行の第三の階梯)・阿羅漢果(小乗仏教では修行者の到達しうる最高の位)・辟支仏道(独力で悟りながら他人に説かない小乗の聖者)を会得し、 悟りを求めようとする心を起こし、第一地(初発心より順忍を得る直前まで)・第二地(諸法実相に愛著し、邪見を生じない。禅定の水を得る。)・ 第三地(無生法忍にして、菩薩位に入る。)の仏道における階位へ上り、第十地(世界中に真理のおしえの法雨を降らす)に至るでしょう。 以前にお説きになったこの世に存在する有形や無形の一切のものの教義と今お説きになったものとで、何か違いがあるならば、それは非常に深くこの上ない衆生救済を重んじる無量義経のみです。 悟りを求める修行者が修行すれば必ずこの上ない悟りを開くことを得るであろうとおっしゃいます。このことはどのような意味でしょうか。 ただ願わくば世尊、全てをいつくしみ同情して広く生命のあるものすべてのためにこのことを明らかにし、もれなく現在及び未来の世に教えを聞こうとする者たちのために、この疑問をなくしてください。 ここに仏は、大荘厳菩薩にお告げになった。 善いかな、善いかな。仏法に帰依した男子よ、よくこのような非常に深くこの上ない衆生救済を重んじはっきりととらえられないほど細かく複雑で難しい教義の意味を質問しました。 当然、知るべきである。おまえは得るところが多く人や天人を安楽にし苦しむ生命のあるものすべての心身の苦しみを無くすことを。 真の大慈悲であり、真実であり虚しくないのです。 この因縁によって必ずこの上ない悟りを開くことを得るでしょう。 また全ての現世や来世に生まれる人々にこの上ない悟りを開かせ得るでしょう。 仏法に帰依した男子よ、私は菩提樹の下に端座して六年目に一切の真理をあまねく知った最上の智慧を成じることを得ました。 |
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【ページ14】
佛眼 を 以 って 一切 の 諸法 を 観 ずるに、 宣説 すべからず。 所以 は 云何 、 諸 の 衆生 の 性欲不同 なることを 知 れり。 性欲不同 なれば 種種 に 法 を 説 きき。 種種 に 法 を 説 くこと 方便力 を 以 ってす。 四十余年 には 未 だ 真実 を 顕 わさず。 是 の 故 に 衆生 の 得道差別 して、 疾 く 無上菩提 を 成 ずることを 得 ず。 善男子 、 法 は 譬 えば 水 の 能 く 垢穢 を 洗 うに、 若 しは 井 、 若 しは 池 、 若 しは 江 、 若 しは 河 、 渓 、 渠 、 大海 、 皆悉 く 能 く 諸有 の 垢穢 を 洗 うが 如 く、 其 の 法水 も 亦復是 の 如 し、 能 く 衆生 の 諸 の 煩悩 の 垢 を 洗 う。 善男子 、 水 の 性 は 是 れ 一 なれども 江 、 河 、 井 、 池 、 渓 、 渠 、 大海 、 各各別異 なり。 其 の 法性 も 亦復是 の 如 し、 塵労 を 洗除 すること 等 しくして 差別 な け れども、 三法 、 四果 、 二道不一 なり。 善男子 、 水 は 倶 に 洗 うと 雖 も 而 も 井 は 池 に 非 ず、 池 は 江河 に 非 ず、 渓渠 は 海 に 非 ず。 如来世雄 の 法 に 於 いて 自在 なるが 如 く、 所説 の 諸法 も 亦復是 の 如 し、 初 、 中 、 後 の 説 、 皆能 く 衆生 の 煩悩 を 洗除 すれども、 而 も 初 は 中 に 非 ず、 而 も 中 は 後 に 非 ず。 |
【ページ14】
自他を超越して仏の立場から見る目によって全てのこの世に存在する有形や無形の一切のものを細心に分別して観察し道理を悟ると、それを述べて解き明かすべきではない。 なぜならば、諸々の生命のあるものすべての性質や欲望は同じではないことを知ったからです。 性質と欲望が同じでないならば様々に教えを説く必要があり。 様々に教えを説くことは方便という衆生を導くのに臨機応変の手だてを用いる智慧の働きを用いてするのです。 四十余年間未だ真実を明らかにはしていない。 このために生命のあるものすべてが仏道を修行して悟りを開く方法は同じではなく、簡単にこの上ない悟りを得ることはできないのです。 仏法に帰依した男子よ、教えとは例えば水がよく垢や汚れを洗うように、 もしくは井戸、もしくは池、もしくは入り江、もしくは河、渓谷、溝、大海の水がみなすべて巧みにそこにある垢や汚れを洗うように、 その教えの水もまたこれと同じであり、巧みに衆生のいろいろな煩悩の垢を洗うのです。 仏法に帰依した男子よ、水の性質は唯一つですが入り江、河、井戸、池、渓谷、溝、大海とそれぞれ異なります。 その教えの性質もまたこのようであり、煩悩を洗い落とすことは等しく同じであるが、三つの教理である諸行無常と諸法無我と涅槃寂静、 また修行によって得られる悟りの四段階である須陀おん果・斯陀含果・阿那含果・阿羅漢果、また仏道修行の行と学の二道は同じではないのです。 仏法に帰依した男子よ、水は同じに洗うといっても井戸の水は池の水とは異なり、池の水は入り江や河の水とは異なり、渓谷の水や溝の水は海の水とは異なる。 如来の教えにおいて望むとおりに物事をなしうるように、 説く諸々の教えもまたこれと同じで相手によって様々に変わるのです。 教えを説き始めた初期、そして中期、さらに後期の説は、みな巧みに生命のあるものすべての煩悩を洗い流すけれども、初期の説は中期の説とは違い、しかも中期の説は後期の説とは違います。 |
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【ページ15】
初 、 中 、 後 の 説 、 文辞一 なりと 雖 も 而 も 義各異 なり。 善男子 、 我樹王 を 起 って 波羅奈 ・ 鹿野園 の 中 に 詣 って、 阿若拘隣等 の 五人 の 為 に 四諦 の 法輪 を 転 ぜし 時 も、 亦諸法 は 本 より 来空寂 なり。 代謝 して 住 せず 念念 に 生滅 すと 説 き、 中間此及 び 処処 に 於 て、 諸 の 比丘並 に 衆 の 菩薩 の 為 に、 十二因縁六波羅蜜 を 弁演 し 宣説 し、 亦諸法 は 本 より 来空寂 なり、 代謝 して 住 せず 念念 に 生滅 すと 説 き、 今復此 に 於 て、 大乗無量義経 を 演説 するに、 亦諸法 は 本 より 来空寂 なり、 代謝 して 住 せず 念念 に 生滅 すと 説 く。 善男子 、 是 の 故 に 初説 ・ 中説 、 後説 、 文辞是 れ 一 なれども 而 も 義別異 なり。 義異 なるが 故 に 衆生 の 解異 なり。 解異 なるが 故 に 得法 、 得果 、 得道 、 亦異 なり。 善男子 、 初 め 四諦 を 説 いて 声聞 を 求 むる 人 の 為 にせしかども、 而 も 八億 の 諸天来下 して 法 を 聴 いて 菩提心 を 発 し、 中 ごろ 処処 に 於 いて、 甚深 の 十二因縁 を 演説 して 辟支佛 を 求 むる 人 の 為 にせしかども、 而 も 無量 の 衆生 、 菩提心 を 発 し、 或 は 声聞 に 住 しき。 |
【ページ15】
初期、中期、後期の説において文字が同じであるといえどもその教義がそれぞれ異なるのです。 仏法に帰依した男子よ、私が樹王を出発して波羅奈の鹿野園へ行き、阿若憍陳如たち五人のために四つの真理を説いた。また、この世に存在する有形や無形の一切のものはもともと仮の存在であり、 実体のないものであると説いた。 古いものと新しいものが入れ替わりとどまらず時々刻々と生じ滅すると説き、 中期においてここかしこで、諸々の出家した男子や成仏を求める修行者のために人間の悲しみの原因である十二因縁や布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六波羅蜜を弁演し述べて解き明かした、 またこの世に存在する有形や無形の一切のものは本来実体がなくその本性は空であったのです。古いものと新しいものが入れ替わりとどまらず時々刻々と生じ滅すると説き、 今またここにおいて、衆生救済を重んじる無量義経を演説してみると、またこの世に存在する有形や無形の一切のものは実体がなくその本性は空であり、 古いものと新しいものが入れ替わりとどまらず時々刻々と生じ滅すると説くのです。 仏法に帰依した男子よ、このような理由で初期の説法、中期の説法、後期の説法、文章の言葉は同一ですが、しかしその教義は異なっているのです。 教義が異なっているために生命のあるものすべての理解も異なるのです。 理解が異なるために仏道修行によって得られる教え、仏道修行によって得る位、仏道修行によって得る悟りもなた異なるのです。 仏法に帰依した男子よ、私は初期において、人生は苦であるであるという真理と、その苦の原因は人間の執着にあるという真理と、この苦を滅した境地が悟りであるといる真理と、 その悟りに到達する方法は八正道であるという四つの真理の教えを、自己の悟りのみを求める修行者のために説いたのです、 しかも八億の諸々の天人が下りてこられて教えを聞いて悟りを求めようとする心をおこし、 中期にはここかしこにおいて、非常に深い十二因縁を演説して、独力で悟りながら他人に説かない小乗の聖者のために説いたのです。 しかもこの時数え切れないほどの生命のあるものすべてが悟りを求めようとする心をおこし、或いは自己の悟りのみを求める修行者となったのです。 |
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【ページ16】
次 ぎに 方等十二部経 、 摩訶般若 、 華厳海空 を 説 いて、 菩薩 の 歴劫修行 を 宣説 せしかども、 而 も 百千 の 比丘 、 萬億 の 人天 、 無量 の 衆生 、 須陀洹 、 斯陀含 、 阿那含 、 阿羅漢果 、 辟支佛 、 因縁 の 法 の 中 に 住 することを 得 。 善男子 、 是 の 義 を 以 っての 故 に、 故 に 知 んぬ、 説 は 同 じ け れども 而 も 義 は 別異 なり、 義異 なるが 故 に 衆生 の 解異 なり。 解異 なるが 故 に 得法 、 得果 、 得道 、 亦異 なり。 是 の 故 に 善男子 、 我道 を 得 て 初 めて 起 って 法 を 説 きしより、 今日 、 大乗無量義経 を 演説 するに 至 るまで、 未 だ 曾 て 苦 、 空 、 無常 、 無我 、 非真 、 非仮 、 非大 、 非小 、 本来生 ぜず 今亦滅 せず、 一相 、 無相 、 法相 、 法性 、 不来 、 不去 なり、 而 も 諸 の 衆生四相 に 遷 さるると 説 かざるにあらず。 善男子 、 是 の 義 を 以 っての 故 に、 一切 の 諸佛 は 二言 あることなく、 能 く 一音 を 以 って 普 く 衆 の 声 に 応 じ、 能 く 一身 を 以 って 百千萬億那由佗無量無数恆河沙 の 身 を 示 し、 |
【ページ16】
次に方等十二部経、摩訶般若、華厳海空を説いて、悟りを求める修行者の長い間の修行を演説したのです。 しかも百千の出家者の男子、万億の人や天の神々、数え切れない生命のあるものすべて、仏教修行の第一の段階である須陀おん果、仏教修行の第二の段階である斯陀含果、 仏教修行の第三の段階である阿那含果、仏教修行の最高位である阿羅漢果、独力で悟りながら他人に説かない辟支仏たちは、原因がありそこに縁が働いて結果が出るという因縁の法則を理解しました。 仏法に帰依した男子よ、今このように説明した教義のため、そのために知られています。 説は同じであるけれどもしかしそれぞれの教義は異なるのです。教義が異なるために生命のあるものすべての理解も異なるのです。 理解が異なるために仏道修行によって得られる教え、仏道修行によって得る位、仏道修行によって得る悟りもまた異なるのです。 このために仏法に帰依した男子よ、私が悟りを開いて初めて教えを説いたときから、今日、大乗無量義経を演説するに至るまで、 未だかつて説かなかったのです。苦や空は常に存在しないし、自分自身も存在せず、真実もなく虚偽もない、大きさもなく小ささもない、本来生まれてもいなければ、今また滅してもいない、 一つの姿かたちや、姿かたちがないこと、全ての存在に高下・善悪の相があること、すべての存在や現象の真の本性、理法のすがたや理法の性質は来ることもないし去ることもなく、 しかも諸々の生命のあるものすべては生まれる生、存在する住、変化する異、消滅する滅の四相を変遷すると。 仏法に帰依した男子よ、この教義の理由により、 全ての諸々の仏の言葉には嘘偽りがないのです。 巧みに一つの真実の言葉で広く人々の声に応じ、 巧みに一つの身体を以ってガンジス川の砂の数ほどの数え切れない身体を示し、 |
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【ページ17】
一一 の 身 の 中 に 又若干百千萬億那由佗阿僧祇恆河沙種種 の 類形 を 示 し、 一一 の 形 の 中 に 又若干百千萬億那由佗阿僧祇恆河沙 の 形 を 示 す。 善男子 、 是 れ 則 ち 諸佛 の 不可思議甚深 の 境界 なり。 二乗 の 知 る 所 に 非 ず、 亦十地 の 菩薩 の 及 ぶ 所 に 非 ず、 唯佛 と 佛 とのみ 乃 し 能 く 究了 したまえり。 善男子 、 是 の 故 に 我説 く、 微妙甚深無上大乗無量義経 は、 文理真正 なり、 尊 にして 過上 なし。 三世 の 諸佛 の 共 に 守護 したもう 所 、 衆魔外道 、 得入 すること 有 ることなし。 一切 の 邪見生死 に 壊敗 せられずと。 菩薩摩訶薩 、 若 し 疾 く 無上菩提 を 成 ぜんと 欲 せば、 応当 に 是 の 如 き 甚深無上大乗無量義経 を 修学 すべし。 佛 、 是 れを 説 きたもうこと 已 って、 是 に 三千大千世界六種 に 震動 し、 自然 に 空中 より 種種 の 天華 、 天優鉢羅華 、 鉢曇摩華 、 拘物頭華 、 分陀利華 を 雨 らし、 又無数種種 の 天香 、 天衣 、 天瓔珞 、 天無価 の 宝 を 雨 らして 上空 の 中 より 旋転 して 来下 し、 佛及 び 諸 の 菩薩 、 声聞 、 大衆 に 供養 す。 天厨 、 天鉢器 に 天百味食充満盈溢 し、 天幢 、 天旛 、 天軒蓋 、 天妙楽具 、 処処 に 安置 し、 天 の 伎楽 を 作 して 佛 を 歌歎 したてまつる。 |
【ページ17】
その一つ一つの身体の中にまたガンジス川の砂の数ほどの数え切れない種々の形を示し、 一つ一つの形の中にガンジス川の砂の数ほどの数え切れない形を示すのです。 仏法に帰依した男子よ、これはすなわち諸々の仏について人々が理解することが困難な果報としてこの世で受ける境遇なのです。 自己の悟りのみを求める修行者と仏の教えによらず十二因縁を観じて理法を悟った者の二乗には理解ができないのです。また仏道修行の段階の十地の成仏を求める修行者には理解ができないのです。 ただ仏と仏のみが究め理解できるのです。 仏法に帰依した男子よ、この理由により私は説くのです。はっきりととらえられないほど細かく複雑で難しく非常に深くこの上なく衆生救済を重んじる無量義経は、文章の筋道は真に正しく、 尊くこの上ないのです。 過去現在未来の諸仏が共に守護し、邪道に誘い込む悪魔や仏教以外の思想学派は入り込むことはできないのです。 全ての因果の道理を無視する誤った考え方や生まれては死に死んでは生まれる苦しみに秩序がこわれることはないのです。 悟りを求める修行者と大乘を求める修行者よ、もし早くこの上ない悟りを開こうとするならば、非常に深くこの上なく衆生救済を重んじる無量義経を修学しなさい。 仏がこれを説き終えると、三千大千世界が六つの種類に振動した。 自然に空中より種々の天華、天優鉢羅華、鉢曇摩華、拘物頭華、分陀利華を雨のように降らし、 また数えきれないほどたくさんの種類の天の香、天の衣、天の瓔珞、天の価値のつけられない宝を雨のように上空より降らして旋回して回転しながら落ちてきて、 仏や諸々の悟りを求める修行者や自己の悟りのみを求める修行者や人々に供養されたのです。 天の厨で作られた百の味の異なる食べ物が天の鉢器に盛られ、天の幢、天の旛、天の軒蓋、天の妙なる音をかなでる楽具がそこここにおかれ、天の音楽を演奏して仏を謳歌し賛嘆したのです。 |
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又復六種 に 東方恆河沙等 の 諸佛 の 世界 を 震動 し、 亦天華 、 天香 、 天衣 、 天瓔珞 、 天無価宝 、 天厨 の 天鉢器 には 天 の 百味 の 天幢 、 天旛 、 天軒蓋 、 天妙楽具 を 雨 らし、 天 の 伎楽 を 作 して 彼 の 佛及 び 彼 の 菩薩 、 声聞 、 大衆 を 歌歎 したてまつる。 南西北方 ・ 四維 ・ 上下 も 亦復是 の 如 し。 是 に 衆中 の 三萬二千 の 菩薩摩訶薩 は、 無量義三昧 を 得 、 二萬四千 の 菩薩摩訶薩 は、 無数無量 の 陀羅尼門 を 得 、 能 く 一切三世 の 諸佛 の 不退 の 法輪 を 転 ず。 其 の 諸 の 比丘 、 比丘尼 、 優婆塞 、 優婆夷 、 天 、 龍 、 夜叉 、 乾闥婆 、 阿修羅 、 迦楼羅 、 緊那羅 、 摩睺羅迦 、 大転輪王 、 小転輪王 、 銀輪 、 鉄輪 、 諸輪 の 王 、 国王 、 王子 、 国臣 、 国民 、 国士 、 国女 、 国大長者及 び 諸 の 眷属百千衆倶 に、 佛如来 の 是 の 経 を 説 きたもうを 聞 きたてまつる 時 、 或 は 煗法 、 頂法 、 世間第一法 、 須陀洹果 、 斯陀含果 、 阿那含果 、 阿羅漢果 、 辟支佛果 を 得 、 又菩薩 の 無生法忍 を 得 、 又一陀羅尼 を 得 、 又二陀羅尼 を 得 、 又三陀羅尼 を 得 、 又四陀羅尼 、 五 、 六 、 七 、 八 、 九 、 十陀羅尼 を 得 、 |
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またガンジス川の砂の数ほどもある東方の諸仏の世界を六つの種類に振動させ、 また天の華、天の香、天の衣、天の瓔珞、天の価値のつけられない宝、天の厨、天の鉢器、天の百味、天の幢、天の旛、天の軒蓋、天の妙なる音をかなでる楽具を雨のように降らし、 天の音楽を演奏してその悟りを求める修行者や自己の悟りのみを求める修行者や人々を謳歌し賛嘆したのです。 南西北方天地の四つの隅上下もまたこのようであったのです。 ここに人々の中の三万二千の悟りを求める修行者と大乘を求める修行者は数えられないほど多くの教義と心の安らぎを得て、 三万四千の悟りを求める修行者と大乘を求める修行者は数え切れないほど多くの前世からの記憶力、知力、念力を得る方法手段を得て、全て過去現在未来の諸仏の退くことなくいつも修行し、よく教えを広めたのです。 その諸々の出家した男、出家した女、在家者の男、在家者の女、天の神々、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩、羅伽、大転輪王、 小転輪王、銀輪、鉄輪、諸輪の王、国王、王子、国臣、国民、国士、国女、国大長者及び諸々の従者が百千みな共に、 仏如来のこの経をお説きになったのを聞いているときに、あるいは煖法(四善根位の第一、煩悩を焼き尽くす見道の無漏の慧の火に近づき、有漏の善根を生ずる位)・ 頂法(山の頂に登つて四方を見るに雲無きが如し)・忍法(此の位に入る人は永く悪道に堕ちず)・世第一法(此の位に至る賢人なり但今聖人と成る可きなり)・ 須陀洹果(仏教修行の第一の段階)・斯陀含果(小乗仏教修行の第二の階梯)・阿那含果(小乗仏教修行の第三の階梯)・阿羅漢果(小乗仏教では修行者の到達しうる最高の位)・ 辟支仏果(独力で悟りながら他人に説かない小乗の聖者)などの仏道修行の段階を得、 また悟りを求める修行者が一切のものが不生不滅であると認めることを得、 また悟りを求める修行者が菩提心を起こしてから仏になるまでに得なくてはならない知識の第一段階の一陀羅尼を得、 または第二段階の二陀羅尼を得、 または第三段階の三陀羅尼を得、 または四陀羅尼、五、六、七、八、九、十陀羅尼を得、 |
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又百千萬億陀羅尼 を 得 、 又無量無数恆河沙阿僧祇陀羅尼 を 得 て、 皆能 く 随順 して 不退転 の 法輪 を 転 ず。 無量 の 衆生 は 阿耨多羅三藐三菩提 の 心 を 発 しき。 |
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または百千万億陀羅尼を得、 または無量無数恒河沙阿僧祇陀羅尼を得て、 みなよく従順に仏道から脱落することはなく教えを広め説いたのです。 数え切れないほどの衆生が一切の真理をあまねく知った最上の智慧を得ようとする心を起こしたのです。 |